この物語はフィクションです。登場するアプリは特定のサービスを指さず、操作の描写も創作です。
洗濯物を畳んでいた修一の足元に、シャツのボタンが落ちた。椅子の脚に当たって、乾いた音がした。
拾って袖口に重ねると、以前から緩んでいたほうのボタンだった。六十三歳の修一は、印刷会社の出荷の仕事を週に四日している。明日着るつもりのシャツだ。別のを出そうかと思ったが、今ならすぐに済む。
小さな裁縫箱を持ってきて、白い糸を針に通した。そこで、テーブルのスマートフォンが鳴った。
娘の電話で、元妻の再婚を知った
「お父さん、今いい?」
娘の真帆だった。修一は針を針山に戻し、電話を耳に当てた。
「いいよ。どうした」
「お母さん、再婚したんだって。私、昨日聞いて」
「ああ、そう」
返事はすぐに出た。電話の向こうが少し静かになったので、修一も黙った。
「お父さん、知ってるのかなと思って」
「いや、知らなかった。教えてくれてありがとう」
真帆は「うん」と言った。少し間があってから、二人はいつものように「じゃあ、また」と電話を切った。
修一はスマートフォンを置き、シャツを膝に広げ直した。針に手を伸ばしたものの、何をしようとしていたのか、一瞬分からなくなった。

離婚して五年になる。今の部屋にも仕事にも慣れた。買い物をする店も決まり、元妻に尋ねなければ分からない用事は、ほとんどなくなっていた。
再婚という言葉を、頭の中でもう一度聞いた。
元妻が知らない誰かと笑っているところが浮かんだ。自分のほうは、五年前からあまり変わっていない気がした。ついさっきまでは、この部屋をそんなふうに見ていなかった。
ボタンを裁縫箱のふたに入れ、シャツを椅子の背へかけた。冷蔵庫から夕飯の惣菜を出し、皿に移す。食べながら、さっきの自分の返事を思い出した。「ああ、そう」。ずいぶん平気そうな声だった。
「お父さんのほうは?」と聞かれたわけではない。それなのに、次の電話では何か、違う話をしなければと思った。
夕飯のあと、アプリに登録した
食べ終えると、修一はマッチングアプリを探した。前にも気になったことはある。けれど、自分のことを何と書くのか、知らない人とどんな話をするのかと考えるうちに、そのままになっていた。
今夜は、登録するところまで進んだ。
画面には、知らない人たちの写真や紹介文が並んでいた。修一は少し読んでは、指を動かした。ひとつひとつの文章を最後まで読む前に、次が気になった。
自分の紹介文も考えようと、テーブルにあった封筒を裏返した。仕事のこと、休みの日のこと。ペンを持つと、画面を眺めていたときより手が進まない。
「なるべく早くお会いしたいです」
先に書けたのは、その一文だった。

これなら、会うつもりがあることは伝わる。そう思って、その下に趣味を書きかけた。
映画は好きだ。ただ、映画館へ行くのは年に数回で、休みの日は家で一本見ることのほうが多い。旅行も嫌いではないが、久しく遠出はしていなかった。映画好きとだけ書くと、毎週のように見ている人だと思われるだろうか。
ペンを置き、椅子に深く座り直した。
誰かと映画を見に行くのは、いい。見終わってから食事をして、自分が気に留めなかった場面の話を聞く。それなら、また出かけたくなるかもしれない。
「映画は、家で見ることが多いです」
二行目にそう書いた。これで話しかけてもらえるだろうか。もっと楽しそうなことを書いたほうがいいかもしれない。修一は封筒を脇へ寄せ、またスマートフォンに手を伸ばした。
人の紹介文を読み、思いついた言葉を紙の端に書いてみる。どれも、自分よりずっと人付き合いのうまい男が言いそうな言葉だった。
九時を過ぎても、紹介文が決まらない
九時を回っていた。修一はスマートフォンをテーブルに置き、台所で水を飲んだ。夕飯の皿が一枚、流しに残っている。箸もそのままだった。
蛇口をひねり、皿についたソースを流した。
「向こうは、もう……」
水の音に紛れて、小さく声が出た。「俺は」と続けかけて、口を閉じる。真帆は「もう」とは言っていなかった。
もし今、誰かと会う話ができたら。まず真帆に「こっちにも、会っている人がいる」と言うだろう。「お父さんにも?」と驚かれるところまで、すぐに想像できた。
今夜は、その返事が欲しかった。
皿をすすいで水切りかごに立てた。蛇口を閉めたあとも、修一は少しの間、流しの前に立っていた。

テーブルへ戻ると、椅子にかけたシャツの袖が垂れていた。ボタンのない袖口を持ち上げて、座面へ置く。
封筒の「なるべく早く」が目に入った。修一はペンを持ったが、何も直さず、キャップをはめた。書いた二行は、まだ紙の上にあった。
スマートフォンを手に取る。誰かと映画のあとに食事をするところを、もう一度思い浮かべた。その時間は、やはり欲しい。
けれど、今から続きを書こうとすると、また真帆に報告する言葉になりそうだった。
修一はアプリを閉じた。
ボタンをつけてから、明日のシャツをかけた
退会の手続きはしなかった。アプリをまた開く日も、今夜は決めなかった。
スマートフォンを充電器につなぎ、テーブルの端へ寄せる。封筒を畳んで、その下に置いた。裁縫箱のふたからボタンを取り出すと、さっき通した糸が針山の脇で絡んでいた。
修一は糸をほぐし、シャツを膝に広げた。
針を通す位置を決める間にも、再婚という言葉が浮かんだ。相手はどんな人だろう、と考えかけて、手元に目を戻す。
袖口を指でならし、ボタンを重ねる。針を通して糸を引き、位置を確かめながら、何度か繰り返した。
部屋の中は静かだった。袖口を裏返して糸を留め、余った分を切る。ボタンを軽く引いて、緩んでいないか確かめた。
修一は立ち上がり、シャツをハンガーにかけた。隣の袖と重ならないように、ハンガーを少しずらした。