この物語はフィクションです。
「どっちの橋まで行くの?」
遊歩道の入口で、早苗が川の上流を見た。千鶴は、木々の間に少しだけ見える灰色の欄干を指した。
「あそこまで。渡らずに、同じ道を戻ってくるの」
「じゃあ、帰りにもう一度あのベンチを通るね」
早苗が指したのは、川へ向けて置かれた木のベンチだった。千鶴はうなずき、肩に掛けた小さなリュックを背負い直した。
十月半ば、午前十時。日なたを歩くと上着が少し暑い。六十六歳の千鶴は、夫が亡くなってからも、ときどき一人でこの道を歩いていた。夫と来ていた頃は、朝食を済ませるとすぐに出て、遠くの橋まで足を延ばすこともあった。今日は、往復二キロ弱の道を選んだ。
早苗は六十三歳。二年前に陶芸教室で知り合い、今も月に二度、同じ机で土をこねている。教室の帰りに二人で昼食をとることはあっても、この川沿いを一緒に歩くのは初めてだった。
先週、早苗に「教室のない日も、少し歩かない?」と聞かれ、千鶴のほうからこの道を挙げた。ほかに思いつかなかったわけではない。ただ、待ち合わせに向かう今朝は、少し落ち着かなかった。ここで早苗と話すことが増えたら、夫と来た日のことが遠くなってしまう気がした。

ベンチの前で、夫の帽子を思い出した
川沿いの木は、まだ緑の葉が多かった。舗装された道の端にだけ、乾いた葉が寄っている。早苗は道幅の広いところでは千鶴の隣に来て、向こうから人が来ると、少し後ろに下がった。
「ここは、よく来るの?」
「うん。前は夫と」
「そうなんだ」
早苗が千鶴の顔を見た。夫が三年前に亡くなったことは知っている。けれど、二人でどこへ出かけていたかまで、話したことはなかった。
ベンチが近づくと、千鶴の目は、座面よりも先に赤茶けた鉄の脚へ向いた。
五年前の秋だった。ここで夫の帽子が飛ばされ、舗装の上を転がった。夫は二度ほどつかみ損ねたあと、まだ頭に帽子があるように額を押さえた。帽子はベンチの脚に引っかかって止まり、千鶴が拾った。裏返すと内側に砂が入り、夫はかぶり直す前に、手のひらで何度も払っていた。
そのときの夫の、額を押さえた手つきを思い出して、千鶴は少し笑った。
「どうしたの?」
「ここでね、夫の帽子が飛んだことがあって。もう飛んでるのに、頭を押さえたの」
千鶴がまねをすると、早苗も笑い、自分の髪を片手で押さえた。
「分かる。帽子をかぶってない日にもやるもの」
「あの脚のところまで転がっていったのよ」

千鶴はベンチを指した。その先を言おうとして、夫が帽子を受け取ったときの顔が浮かんだ。笑いながら何か言ったはずなのに、言葉は出てこない。
早苗はベンチの背の向こうを見ていた。千鶴も川へ目を移した。水面の光が、橋の下へ細かく続いている。夫に「あのとき、何て言ったんだっけ」と聞きたくなった。
リュックの肩ひもを握ったまま、しばらく立っていた。
「少し座る?」
早苗に聞かれ、千鶴は息を吐いた。
「帰りにしよう。今は歩いていたい」
「うん。私、橋の下がどうなってるのか見たい」
早苗が先に二、三歩進んだ。千鶴も後に続いたが、足元の葉を避けるうちに少し離れた。早苗は振り返り、道の端で待っていた。
橋から戻ると、野菜の箱が出ていた
橋のたもとで、二人は欄干から川をのぞいた。早苗は、橋の下に続く石積みの継ぎ目を見ていた。
「遠くからだと一枚の壁みたいだったのに。石、大きいね」
「そこ、そんなふうになってた?」
千鶴も少しかがんだ。丸い石と四角い石の間へ、小さな石が詰めてある。早苗は細い隙間を指し、「粘土だったら、私、ここを埋めすぎるな」と言った。
教室では早苗の器のほうが厚く、焼く前に底を削っているところをよく見かける。千鶴がそれを言うと、早苗は「薄くしようとすると穴があくのよ」と言い、石積みの下のほうにも目をやった。

千鶴は、早苗が指した隙間をもう一度見た。小さな石は、思っていたより奥まで入り込んでいた。
来た道へ戻り、畑の横まで来たところで、早苗が足を止めた。低い柵の内側に人がいて、門の脇へ木箱を運んでいた。さっき通ったときは、台だけが空いていた場所だ。
「何を売ってるのかな」
箱には、根元に土の残った長ねぎと里芋が並んでいた。道から少し引っ込んだ門の前へ二人で寄ると、畑の人が「今、出したところ」と声をかけた。
千鶴は、この台で野菜を買ったことがなかった。一人で来るときも、たいていはもっと早い時刻だった。

「ねぎ、いいな。でも、これで歩くのか」
早苗は長ねぎと、自分の小さな肩掛けバッグを見比べた。
「持って帰るんでしょう。飾って歩くわけじゃないし」
千鶴が言うと、早苗は声を上げて笑った。
「夕飯に焼こうと思っただけ。そんなに笑わないで」
「笑ったのは早苗さんよ」
早苗は財布の横から、畳んだ布の買い物袋を取り出した。広げてみても、葉の先までは入りそうになかった。
「一束、お願いします」
早苗がそう言って代金を払い、千鶴は袋の口を開いた。畑の人から受け取った三本の長ねぎを、早苗が白いほうから入れていく。青い葉は袋から大きくはみ出した。
「もう少し斜めにしたら?」
千鶴が口を広げ直すと、早苗はねぎを傾けた。一本の葉先が折れそうになり、二人とも同時に手を止めた。
「そこは出しておこう」
千鶴が葉を袋の外へ逃がした。指に、青い匂いがついた。
帰りのベンチで、袋の持ち方を変えた
「右手だと、これが膝に当たるのね」
歩き始めてすぐ、早苗は買い物袋を左手に替えた。すると今度は葉が千鶴のほうへ伸びてきたので、二人の間を少し空けた。
千鶴は横を見て笑った。歩くうちに、帽子を受け取った夫の顔がまた浮かんだ。何と言ったのだったか。思い出そうとすると、足が少し遅くなった。
「帰りに座るって言ったの、あそこね」
早苗の指す先にベンチが見えた。千鶴はうなずいた。
二人で腰を下ろし、それぞれの水筒を出した。千鶴はリュックを膝に置き、上着のファスナーを少し下げた。早苗は買い物袋を抱えて水筒を取り出そうとし、いったん袋を足元に置いた。
「水を飲むだけで、ずいぶん手がいるわ」
二人とも水筒をしまい、早苗は袋の持ち手を重ねた。長すぎて、歩くとねぎが膝の高さまで下がる。二本まとめて結ぼうとすると、袋ごとねぎが回った。
「ちょっと持ってて」
千鶴は自分のリュックを背負い、袋の底を両手で支えた。早苗が持ち手を一度結んでから立ち、提げてみる。ねぎは膝より上へ持ち上がった。

「これなら歩ける」
「結び目、あとでほどける?」
早苗は指を入れて確かめた。
「帰ったら考える。先にねぎを出せばいいし」
早苗は千鶴の隣に座り直し、しばらく二人で川を見ていた。話は続かなかった。千鶴の手のひらには、袋の底についていた土が少し残っている。払ってから指を鼻へ近づけると、まだねぎの匂いがした。
向こうの木の枝が揺れた。早苗が袋を持って立ち上がったのを見て、千鶴も立った。
夫の帽子が引っかかったベンチの脚に、赤茶けた錆が残っていた。その前を、早苗の買い物袋が通った。短く結んだ持ち手の下で、三本の長ねぎの葉先が、歩調に少し遅れて揺れていた。