この物語はフィクションです。
日曜の夜、美和は乾いたタオルを膝に置いたまま、電話口で笑っていた。
「じゃあ、しょうゆだけ買いに、もう一度出たの?」
「あれだけ買ってきて、肝心なものを忘れた」
修一の買い物の話を聞きながら、タオルの端をそろえる。六十二歳の美和には夜勤があり、平日の昼間に働く修一とは、会える日がなかなか重ならない。付き合い始めて三か月。こうして何でもない話をする時間が、美和は好きだった。
「次は土曜のお昼に会おうか」
「うん。土曜は休み」
店と待ち合わせの時刻を決めたあと、修一が言った。
「毎晩電話しようよ。会えなくても、声くらいは聞きたいし」
美和は畳んだタオルを、もう一度広げた。
「あしたは夜勤だから、電話は無理よ」
「そっか。じゃあ、仕事のない夜に。九時ぐらいはどう?」
夜勤があることは伝えてあった。仕事のない夜なら、と美和も思った。
「うん。やってみようか」
電話を切ると、膝の上にはまだタオルが一枚残っていた。
夜勤明けの夜、九時まで起きていた
月曜は午後に仮眠を取り、夕食を済ませてから家を出た。美和のその日の勤務は、夜八時から翌朝八時までだった。
火曜の朝、家に着いたのは九時すぎ。軽く食べて着替えると、寝室のカーテンを閉めた。外では、どこかの家から掃除機の音がしていた。

目が覚めたときは、午後四時を過ぎていた。洗濯をして、夕食を食べ、風呂に入った。八時半になるころには、またまぶたが重くなってきた。
寝ようとして、九時の電話を思い出した。
美和は携帯を手に取り、「今日はもう」と打った。続きが出てこなかった。仕事のない夜に話そうと、自分も返事をしたばかりだった。
打ちかけの文字を消し、居間へ戻った。テレビをつけたが、何を放送していたのか、あとには残らなかった。
九時になると、修一から電話が来た。
「お疲れさま。もう落ち着いた?」
「うん」
修一は、美和が貸した本を読み終えたと言った。最後の場面がよかった、と話している。そこは美和も好きなところだった。何と言おうか考えているうちに、話が先へ進んでしまった。
「……美和さん、眠かった?」
「少し」
「ごめん。今日は寝よう。また聞かせて」
通話は十分ほどで終わった。
布団に入ると、枕元に置いた携帯の画面が暗くなった。あの結末を、修一はどう読んだのだろう。聞き返したかった言葉を思い浮かべながら、美和は眠った。
お風呂を後回しにした水曜日
水曜は仕事がなく、前の晩もよく眠れた。買い物に行き、夕食の支度をしている間は、電話のことを考えなかった。
八時すぎ、風呂に入ろうとして時計を見た。ゆっくり湯船につかると、九時が気になりそうだった。電話が済んでからにしようと、出した着替えを洗面所に置いた。
そのとき、修一からメッセージが届いた。
「帰りが遅くなったので、今夜は九時半でもいい?」
仕事なら仕方がない。そう思って返事を打ち始め、手を止めた。
九時半でも、十時でも、待つあいだは同じように時計を見る気がした。今夜はもう、風呂に入って、好きなところまで本を読んで眠りたかった。
「土曜まで、電話は休みにしてもいい? 会ったときに、電話の時間のことを相談したい」
送ったあと、携帯を置けずにいた。修一からの返事は短かった。
「分かった。土曜に聞かせて。おやすみ」
美和は「おやすみ」と返し、洗面所の着替えを手に取った。
木曜の夜は勤務に入り、金曜の朝に帰宅した。その日は昼間に眠り、夜も早く床についた。
土曜の昼、修一の夜も聞いた
土曜は、目覚ましをかけずに起きた。待ち合わせの店へ向かう前に、貸した本を返してもらうための袋を鞄に入れた。
向かいの席に座った修一は、その本をテーブルの端に置いた。
「電話、負担になってた?」
美和は水を一口飲んだ。ここへ来る途中には、もう少しうまく話せる気がしていた。

「九時まで起きていようと思うのが、しんどい日があって」
「夜勤から帰った日?」
「うん。昼に寝ても、夜はまた眠くなるの。それと、休みの日も、電話を待ってからお風呂に入ろうとか、考えるようになって」
修一は本から手を離した。
「仕事がなければ、大丈夫なんだと思ってた」
「私も、最初はそう思ったんだけど」
食事が運ばれてきた。二人は皿を手前へ寄せ、しばらく箸を動かした。美和が次の言葉を探していると、修一が話し始めた。
「俺は、夜がいちばん楽なんだ。帰って、食べて、片づけたら、あとは寝るだけだから」
「九時だと、ちょうどよかったんだね」
「うん。一日の終わりに、ちょっと話せたらと思ってた」
美和は箸を置いた。自分が風呂を後回しにしている間、修一は食器を洗い終えて、携帯を手に取っていたのかもしれない。
「声は聞きたいの。火曜も、本の話、もっと聞きたかった」
修一が顔を上げた。
「あの日は、返事を考えてるうちに眠くなっちゃって」
「読み終わった勢いで、俺ばっかり話したね」
美和は少し笑ってから、続けた。
「休みの日のお昼なら、もう少し楽に話せる気がする。長くなくていいんだけど」
修一はすぐには答えず、少し考えた。
「昼休みなら、話せる日もあるよ。ただ、用事を済ませに出る日もあるから、毎日は難しいかな」
「うん。私も夜勤明けのお昼は寝てる。起きていて、話したいときに『今どう?』って送るのは?」
「それなら。返事ができなかったら、その日は電話なしでいい?」
「うん。そのまま待ってはいないから」
「じゃあ、まずそれでやってみようか」
美和もうなずいた。修一は水を飲み、テーブルの本を指先で軽くたたいた。
「で、最後のところなんだけど」
「私も、そこを聞きたかった」
今度は、修一が話し終えるまで待って、美和は自分の好きだった一文のことを話した。
最初の昼は話せず、次は五分だけ
翌週の月曜、美和は朝から休みだった。前の夜も家で眠っていたので、昼前には洗濯も買い物も済んでいた。
「お昼、少し話せそう?」
送ってから昼食を温めていると、修一から返事が来た。
「今日は昼休みに用事があって。ごめん、また今度」
少し残念だった。今日は話せるかもしれないと思っていたから。美和は「了解。またね」と返し、温まった昼食をテーブルへ運んだ。
火曜の夜は仕事に出て、水曜の昼には眠っていた。携帯に触れたのは、夕方に起きてからだった。
木曜は、前の晩からゆっくり眠れた。昼食を済ませ、窓辺で洗濯物を畳んでいると、修一の買い物の話を思い出した。
美和が「今、少し話せる?」と送ると、「五分くらいなら」と返ってきた。畳みかけのタオルを脇へ置き、電話をかけた。

「今日は何食べたの?」
修一が聞いた。
「昨日の煮物。しょうゆは忘れなかったから」
「それ、まだ覚えてるの」
修一が笑い、美和も笑った。修一の昼食の話から、二人が前に食べた、やけに大きなコロッケの話になった。
「あ、そろそろ戻るね」
「うん。じゃあね」
電話を切ると、部屋には洗濯物が広がっていた。美和は脇に置いたタオルを取り、両端を合わせた。窓から入った風が、まだ畳んでいないシャツの袖を揺らした。