この物語はフィクションです。
「岸本?」
文具店でボールペンの替え芯を見比べていた恵子は、顔を上げた。レジの向こうに、眼鏡を額へ押し上げた男の人がいる。口元を見て、高校の同級生だった井上だと分かった。
「井上くん。ここ、お店やってたの?」
「親から引き継いだ。ずいぶん前に。岸本こそ、帰省?」
買い物の途中だったことを忘れ、恵子は替え芯を二つ握ったままになっていた。井上がその手を見て、「本体、持ってきた?」と聞く。バッグからペンを出すと、彼は合わないほうを棚へ戻した。
「岸本でいいよ」と返したあと
恵子は五十四歳。春に離婚し、二か月前から地元の賃貸マンションで暮らしている。駅の反対側に住む母の家までは、歩いて二十分ほど。平日は小さな会社へ、事務の仕事に通っている。
旧姓の岸本は、今の職場でも呼ばれている。それでも、井上の呼び捨ての声には、思いがけず背筋が伸びた。高校で廊下の向こうから呼ばれたときも、こんな調子だった。
「そういえば、今の名字は……。昔のまま呼んじゃったな」
袋に替え芯を入れながら、井上が言った。
「岸本でいいよ。今も」
「そう? じゃあ、岸本。いつ戻ったの」
「七月。春に離婚してね」
口にすると、次の言葉まで出かかった。どうして別れたのか。話し合いは長かったのか。前の街に残らなかったのはなぜか。聞かれたときに困らないよう、何度か頭の中で並べた話だった。
井上は「そうだったんだ」と言い、レジの脇の丸椅子を少し引いた。恵子が首を振ると、それ以上は勧めなかった。
「こっちで仕事は?」
「駅の向こうで事務。まだ電話を取るたびに緊張する」
「俺も店の電話、いまだに苦手。注文の品番が長いとさ」
そこで、恵子は初めて笑った。新しい職場でも、聞き取れなかった数字を聞き返すのに気を使っていた。

会計を待つ間、店の奥の壁に写真が並んでいるのが見えた。川沿いの桜、団地の窓、茶色い犬。どれも額はばらばらだった。
「これ、井上くんが撮ったの?」
「近所の人たち。月に一度、日曜に持ち寄ってる。岸本も写真、好きだったよな」
「よく覚えてるね。今はスマホばっかりだけど」
「半分くらい、そうだよ。来週の日曜もやる。見るだけでも」
恵子は壁に近づいた。一枚ごとに小さな紙が添えてあり、撮った人の名前が書かれている。
店を出てから、バッグの中の小袋を確かめた。替え芯一本を買うだけの外出が、思ったより長くなっていた。
昔の写真ではなく、先週撮った一枚
帰宅して、恵子はスマートフォンの写真をさかのぼった。引っ越しの箱、母に送ったカーテンの写真、駅前のパン屋の営業時間。人に見せるつもりのなかったものが続く。
途中で、先週の昼休みに撮った写真が出てきた。会社の近くにある、小さな公園のベンチだった。
座面の半分に、木の影が落ちている。残りの半分だけが明るい。食べ終えたパンの袋をしまって立ったとき、その境目が気になって撮った。何かの記念でも、誰かに送るためでもなかった。
高校の頃は、川や空をよく撮っていた。井上が覚えているのは、その頃のことだろう。実家に置いたアルバムを探せば、懐かしんでもらえる写真もある。
けれど、恵子はベンチの写真をもう一度開いた。右下に、自分の靴の先が少し写り込んでいる。そこは切りたくなったが、切ると影まで短くなる。何度か画面を広げて、結局そのままにした。

翌週、会社帰りに一枚だけ印刷した。画面で見るより影が濃く、思っていた写真と少し違った。もう一度やり直すほどなのか、分からない。透明な袋に入れ、日曜まで本棚に立てておいた。
土曜の夜には、着ていく服を二度替えた。井上に会うのが少し楽しみだった。鏡の前で髪を耳にかけてみて、その自分に照れた。
ただ、彼と二人で出かける約束をしたわけではない。写真を持ち寄る集まりに行くのだ。棚から袋を取ると、襟元よりも、ベンチの隅に写った靴がまた気になった。
写真はバッグの内ポケットに入れた。人に見せて、何と言われるだろう。久しぶりに、そんなことを考えながら眠った。
写真の下に、自分の名前を書く
日曜の午後、文具店の奥には長机が二つ出ていた。井上のほかに三人いて、それぞれ写真を机に並べている。恵子が入ると、井上は「高校の同級生」と紹介しかけた。
「岸本恵子です。今日は、これを持ってきました」
続きを待たずに名乗った声が、少し大きかった気がした。恵子は写真を両手で差し出した。
窓側にいた女性が「石田です」と名乗り、隣の椅子を引いた。石田の前には、同じ猫を撮った写真が何枚もある。恵子が座ると、「全部ぶれてるんだけど、一枚くらい選べるかな」と笑った。
ベンチの写真を見た井上は、首をかしげた。
「岸本って、もっと遠くの景色を撮ってなかった?」
「うん。今は、こういうのが気になる」
「へえ。俺なら、靴は切っちゃうな」
「私も迷った。でも、切ると影が詰まるんだよね」
恵子は写真の端を指で隠してみせた。石田ものぞき込み、「私は靴、あっても好き。座ってた人が立ったところみたい」と言った。
「実際、そうなんです。お昼を食べて、立ってから撮って」
説明するとき、恵子はいつの間にか写真を自分のほうへ引き寄せていた。
井上が、名前を書くための小さな紙を渡した。
「壁に出してもいい? 一か月くらい」
「うん。お願い」
バッグから、先週替え芯を買ったペンを出した。岸本、と書き、その横に恵子と続けた。四文字が少し左に寄った。

仕事の書類にも書いている名前なのに、写真の隣へ置くと落ち着かなかった。誰が撮ったか分からないままなら、感想を聞いても黙っていられる。
「これで、お願いします」
恵子は書き直さず、紙を井上に渡した。
井上が席を外しても、話は続いた
店先で客に呼ばれ、井上がレジへ戻った。恵子は反射的に彼の背中を見た。知っている人がいなくなった机で、急に手の置き場が分からなくなった。
石田が猫の写真を二枚持ち上げた。
「岸本さん、どっちがいいと思う?」
片方は顔がはっきり写っていた。もう片方は、猫が画面から出ていきそうになっていて、しっぽだけが妙に長く見える。
恵子は後の一枚を指した。
「こっち。帰ろうとしてるところが好きです」
「やっぱり? 家族には、顔が見えるほうにしろって言われたんだけど」
「顔のほうも、かわいい。でも私なら、こっちを見て笑うと思う」

石田は二枚をもう一度並べ、しっぽの長いほうを残した。そこから猫の話になり、恵子は昼休みに見かける鳥のことを話した。名前は知らない。ただ、いつも同じベンチの下へ来る。
前の街で夫の友人たちと食事をするとき、恵子は「杉浦の家内です」と挨拶していた。仕事の話になれば夫の予定を答え、転勤の話になれば荷造りの話をした。嫌な席ばかりではなかった。でも、自分が見つけた鳥の話をする隙間は、あまりなかった。
集まりが終わる頃、井上はベンチの写真を壁に掛けた。桜の写真の隣だった。恵子の名前を書いた紙は、額の右下に置かれている。
石田は猫の写真を片づけ、恵子に「またね」と手を振った。恵子もバッグを持ち、壁の写真をもう一度見に行った。
隣では、買い物に来た女性が桜の写真を見ていた。やがてベンチの前で足を止め、顔を近づける。
「ここ、駅の向こうの公園かしら」
恵子がうなずくと、女性は写真の下の名前を見た。
「岸本さんという方は、今日いらっしゃる?」
恵子は小さく手を上げた。
「私です」
バッグを足元に置き、写真の隣に立った。
「お昼休みに、ここでパンを食べていたんです。立ったら、この影が見えて」