夫の命日のデートを断った。次に会う日は、二人で決めた

この物語はフィクションです。

「十八日の日曜日は会えません。夫の命日なので、一人で過ごしたいと思っています」

律子はそう送って、携帯電話を食卓に置いた。六十六歳。夫を亡くして五年になる。交際している岸本に、日曜日の誘いを断る返事をしたのは、十月十四日の夜だった。

誘ってもらったことは、うれしかった。岸本と過ごす時間も好きだった。それでも、十八日は会わずにいたかった。

日曜日で終わる展示

岸本からの誘いは、その日の午後に届いていた。

「版画の展示、日曜日までだそうです。十八日、一緒に見に行きませんか。僕は今週、その日なら行けます」

二人が付き合い始めたのは、春先だった。住まいは別々で、会うのは互いの仕事が休みの日。律子は今も週に三日、食品卸の事務所で伝票を扱っている。岸本にも、不定期の勤務があった。

展示のことは、前に律子から話した。岸本と並んで昼食を待っていたとき、店の壁に案内が貼ってあったのだ。遠くまで続く線路を描いた絵に、小さな犬がいた。

「犬がいるの、分かりますか」

岸本は眼鏡を掛け直し、最初は全然違う場所を指した。律子が笑うと、「そんな隅にいたのか」と自分でも笑った。ほかの絵にも、何か見落とすものがあるかもしれない。二人で見てみたかった。

帰宅して誘いの文を読み直したとき、律子は、寝室の机に出しておいた小さな箱を思い出した。夫の和也から、昔もらった手紙が入っている。出張先から送ってきたものが多く、日付のない短いメモも混じっていた。

寝室の机の端に置かれた、ふた付きの小箱

今年の命日は、午前中に一人で墓参りをして、あとは家にいようと思っていた。手紙を読むかもしれないし、箱を開けずに終わるかもしれない。帰ってから何時に何をするかまでは、決めたくなかった。

手帳の十八日の欄には、ほかの用事を入れていない。けれど、そこへ展示の予定を書き込む気にはなれなかった。

岸本は夫と死別したことを知っている。ただ、命日がいつなのかは話していなかった。律子は携帯電話を持ち、食卓に座り直した。

「では、夕方だけでも」

断る返事を送って皿を片づけていると、岸本から電話がかかってきた。

「日曜日のこと、少し話してもいいですか」

「はい。大丈夫です」

律子は布巾を置いた。

「お墓参りに行くんですか」

「午前中に。そのあとは家にいようと思っています」

「では、夕方だけでも。展示は無理でも、ご飯なら」

律子は流しの縁を見た。水滴が一つ残っていて、指で拭おうとしてやめた。

「夕方も、会わずにいたいんです。お墓から帰ったあと、出かける時間を気にせずにいたくて」

電話の向こうで、短く「そうですか」と聞こえた。

流しの前で携帯電話を耳に当てる律子

岸本は、少し間を置いて続けた。

「一緒に見られると思っていたので、残念です」

「私も、あの展示は見たかったです」

言ってから、今は展示の話だけでは足りない気がした。岸本が、次の言葉を先に口にした。

「しばらく、誘わないほうがいいですか」

「いえ。岸本さんとは、また会いたいです。十八日は一人で過ごしたい、ということなんです」

「次は誘ってもいいんですね」

「はい。今、別の日の話をしてもいいですか」

そこまで言って、律子は食卓の椅子を引いた。

「もちろん。いつがよさそうですか」

次の約束は、二十四日

「その次の金曜日は、どうでしょう。仕事のあとなら、私は会えます」

「二十三日は、僕の勤務が遅いんです。土曜日のお昼なら空いています」

律子は手元へ手帳を寄せた。二十四日には予定がなかった。

「土曜日なら、私も。十二時に、いつもの駅の西口改札で会いませんか。そこからお昼を食べに」

「ええ。二十四日の十二時、西口改札ですね」

「はい。楽しみにしています」

二十四日には、展示はもう終わっている。

「展示は日曜日に、一人で見てきます」と岸本が言った。

「ええ。今度会ったら、どの絵がよかったか聞かせてください」

「犬を見落とさないようにします」

律子も少し笑った。

電話を切ると、手帳の二十四日の欄に、岸本の名前と「十二時・西口改札」を書いた。

電話を終え、手帳に次の待ち合わせを書き込む律子の手元

食卓を片づけ、律子は寝室へ向かった。小さな箱は机の端に置いたままだった。ふたを持ち上げ、いちばん上の封筒を見て、また閉じた。

命日の午後、箱を開ける

十八日は、朝から曇っていた。律子は一人で墓参りに行き、昼前に帰ってきた。靴の裏についた土を玄関で落とし、上着を掛けた。

簡単に昼食を済ませてから、寝室の机の前に座った。窓を少し開けると、外を走る自転車の音がした。

箱の中から、一通の封筒を抜いた。

和也は、出張先で傘を買ったことを書いていた。忘れてきたのではなく、律子が入れておいた折り畳み傘を、鞄の底で見つけられなかったのだという。

律子はその傘を覚えていた。家に同じような紺色の傘が増えたので、帰ってきた和也に文句を言った。和也は二本を並べ、持ち手の曲がり方が違うと言い張った。

便箋を裏返すと、もう文字はなかった。続きを読みたくて返したのに、そこで終わっていた。

律子はしばらく裏を見て、それから表へ戻した。傘の話は、たった三行だった。紙を畳もうとして、元の折り目を外した。直すと、角に指の跡が残った。

折り目を直した便箋に手を添える律子

隣に置いた携帯電話で時刻を見た。まだ二時にもなっていない。岸本との次の約束は、二十四日の昼だった。

律子は携帯電話の画面を消した。封筒へ戻しかけた便箋をもう一度広げ、折り目の上に手のひらを置いた。紙はすぐには平らにならず、手を離すと端が少し持ち上がった。