73歳、好きだと気づいたのは一人の帰り道だった

この物語はフィクションです。

道子の裁縫箱には、使いかけの糸が何色も入っている。短くなった鉛筆と、店を閉めたときに持ち帰った針山もある。

土曜の午後、その箱を持って会館へ行くと、作業部屋に青い椅子が一脚増えていた。

「まだ座らないでくださいね」

奥から高瀬の声がした。道子は「はい」と返し、机に裁縫箱を置いた。

袖を直す人、椅子を塗る人

道子は七十三歳。商店街で洋服の直しを四十年近く続け、五年前に店を閉めた。町の小さな劇団の衣装を手伝うようになってからは、二十年以上になる。初めは客だった信子に頼まれた。信子は今も舞台に立ち、道子とは芝居の帰りに感想を言い合う仲だった。

今日は、衣装の上着の袖を詰める。演じる人に着てもらい、手を上げ下げしてもらってから、まち針を打った。脱いだ上着を受け取ると、いつもの窓際の机へ広げた。

隣では、高瀬が椅子を塗っていた。七十四歳で、この春から大道具の手伝いに来ている。道子が彼と長く話すのは、稽古の始まる前や、片づけの合間だった。

会館で衣装を縫う女性と、青い椅子を塗る男性

「それ、舞台ではどこに置くんですか」

「窓のそばだそうです。部屋に一つだけ、いい椅子があるんですって」

「ずいぶん思い切った青ですね」

「もう少し薄いと思ったんですけどね」

高瀬は刷毛を止め、椅子から一歩離れた。道子も針を持ったまま顔を上げた。

「でも、後ろの席からもよく見えそう」

「座る人より目立ったら、困るな」

道子は笑った。高瀬はすぐには笑わず、椅子の背を眺め、それから口元を緩めた。その少し遅れる笑い方を、道子はもう知っていた。

隣の部屋で稽古が始まり、台詞が聞こえてきた。信子が同じところを言い間違えるたび、道子は顔を上げた。三度目には高瀬もこちらを見たので、二人とも声を出さずに笑った。

袖は予定より早く仕上がった。道子は余った糸を巻き、はさみを箱へ戻した。高瀬は、椅子の脚についた青い滴を拭いていた。

いつもなら先に帰るところを、道子は椅子の色が乾くとどうなるのか、もう少し見ていた。

角を曲がって、一人になった

会館を出るころには、薄手の上着が要る涼しさになっていた。高瀬と商店街の入り口まで一緒に歩いた。

「道子さんは、子どものころから縫い物が好きだったんですか」

「いいえ。学校の宿題は、母に手伝ってもらってました」

「そうなんですか」

「店をやるようになるなんて、自分でも思いませんでしたよ」

高瀬は笑い、それから、自分は学校で作った木箱のふたが閉まらなかったと話した。今も家のどこかにあるらしい。道子が「ふたは?」と聞くと、「そっちだけ、なくしました」と答えた。

花屋のある角で道が分かれた。高瀬は駅のほうへ曲がり、道子は家へ続く坂を上った。

通りの途中に、以前よく仕事を頼まれた洋品店があった。閉店してから何年もたつが、壁には取り外した看板の跡が残っている。道子はその前で、隣に顔を向けかけた。

ここから頼まれた裾直しを、開店前に自転車で届けていた。雨の日に袋が破れた話を、高瀬にしたくなったのだ。

さっき別れたばかりだった。

布バッグを持ち、一人で帰り道を歩く女性

坂の上には、小さな公園がある。道子は歩きながら、もしあの人がまだ隣にいたら、少し座っていこうと言ったかもしれない、と思った。裁縫箱も、塗りかけの椅子もない日に。二人で。

隣にあの人がいたら、その手に触れてみたい。

道子は、バッグの持ち手を握り直した。

あの人が好きなんだ。

声には出さなかった。それでも、口にしたような気がして、前から来る自転車に目をそらした。

誰かと付き合いたいと、自分のこととして考えたのは初めてだった。

もう坂を上りきっていた。公園には寄らず、いつもの道を家へ向かった。歩く速さを戻そうとすると、少し前まで自分がゆっくり歩いていたことに気づいた。

片方だけそろえた靴

玄関で靴を脱ぎ、片方だけそろえて、道子は上がり框に腰を下ろした。裁縫箱の入ったバッグを膝の脇へ置く。

七十三になって、と思いかけた。

結婚はしていない。付き合った人もいない。けれど、家に帰って思い出す顔は、これまでもいくつもあった。店の客と険悪になった日も、信子と芝居の話をしながら終電近くまでいた日も。そうした日のことなら、誰に話すにも困らなかった。

高瀬のことは、信子に話す自分を想像しただけで、落ち着かなくなった。

「高瀬さんがね」

小さく言ってみて、その先は続かなかった。

高瀬は、自分をどう思っているのだろう。

立ち上がって、もう片方の靴をそろえた。

冷蔵庫には、朝作ったひじきの煮物があった。ご飯を温め、卵を一つ焼く。台所の窓を少し開けると、向かいの家で雨戸を閉める音がした。

道子は食卓で、いつも聞いているラジオをつけた。好きな番組の途中だったのに、気がつくと木箱のふたを思い浮かべていた。閉まらないふたをなくして、箱だけ取ってある。

おかしくなって笑ったあと、卵が冷めていることに気づいた。

食後、自分の上着を出した。先週から、袖口の裏地が少しほどけていた。人の衣装は直したのに、こちらはまだだった。

机には、店を閉めてから買った小さな明かりがある。店で使っていた大きな裁ち台は処分したが、この机なら窓を開ける邪魔にならず、ミシンも置ける。道子はその場所が気に入っていた。

裏地に合う糸を探していると、青い糸巻きが指に触れた。今日の椅子はもっと濃い色だった。あれくらい濃い青も、案外よかった。

開いた裁縫箱の青い糸巻きに触れる手

糸を選んだところで、箱のふたを閉めた。上着は机に広げておいた。

日曜の朝、いつもの針仕事

翌朝、信子から電話があった。

「昨日の袖、動かしやすくなったって。お礼を言っておいてくれって頼まれたの」

「それはよかった。あなた、台詞は覚えた?」

「そっちは聞かないで」

道子は笑った。信子はそのあと、帰りに買った弁当のご飯が硬かったと話した。二人でよく寄る店だった。道子は、自分が最後に買ったときもそうだったと言った。

高瀬の名前は出なかった。道子からも出さずに電話を切った。

朝食の片づけを済ませ、昨夜の上着を膝へ載せた。針を持ち、ほどけたところの端を指で探す。

何度も直して着ている上着だった。襟の形も、ポケットに手を入れたときの深さも、今の道子にちょうどいい。

縫いながら、次に高瀬に会ったら、いつものように顔を見られるだろうかと考えた。あの笑い方を、また見たかった。

針を止めたまま、しばらく窓の外を見た。

やがて手元に目を戻した。あと少しで袖口がつながる。道子は裏地を指で押さえ、続きを縫った。