この物語はフィクションです。
「ブレンドを、ふた……」
修一はそこで口を閉じた。水を置いた店員が、伝票に目を落としたまま待っている。
「一つ、お願いします」
七十二歳の修一は、去年の冬に妻の圭子を亡くした。この喫茶店に一人で来るのも、初めてではない。それなのに今朝は、椅子を引いて腰を下ろすと、二人で来ていた頃の注文が口をついて出かけた。
店員は「ブレンドですね」と言って戻っていった。修一は上着を脱ぎかけたが、袖を抜かずに座り直した。コーヒーを飲んだら、すぐに出ようと思った。

向かいへ置いた新聞
店はスーパーへ行く途中にある。買い物の前に寄るときは、圭子が窓側、修一が通路側に座っていた。圭子は外を見たいと言うくせに、座るとすぐ新聞を広げた。
修一は入口の棚から取ってきた朝刊を開いた。折り込み広告を抜き、その下のテレビ欄を含む紙面を外す。自分が記事を読み始める前に、それを圭子へ渡すのがいつもの順番だった。
今朝も半分に折って、向かいへ置いた。
圭子は番組欄の古い映画を見つけると、知っている俳優の名前を挙げた。修一が映画の題名を間違えると、「それじゃない。最後に船に乗るほう」と言い直す。結局どちらも思い出せず、帰ってから調べることもあった。
向かいの椅子の背には、籐が一本だけ浮いている。圭子はそこへ薄い上着を掛け、帰りに引っかけないよう、いつも両手で外していた。
修一は新聞を引き戻そうとして、手を止めた。テーブルを挟んで少し遠くにあるほうが、今は楽だった。自分の手元の面を開き、見出しから読み始めたが、次の段落へ進んだところで、何を読んでいたのか分からなくなった。
コーヒーが運ばれてきた。白いカップと受け皿が一組、修一の前に置かれた。店員が引いたあと、カップを口へ運ぶ。まだ熱く、一口だけ飲んで戻した。

向かいへ話しかけることは、家でも減っていた。けれど、ときどきこういう朝がある。今朝ここへ入るまでは、洗濯物を干し、買うものを確かめ、普段と変わらず家を出てきたのだった。
修一はテーブルの端の伝票に手を伸ばした。指で挟んでから、飲みかけのカップを見た。店員は別の席で注文を聞いている。伝票を元の位置に戻し、もう少し冷めるのを待った。
隣の客が欲しかったのは、一枚だけ
「新聞、あとでお借りしてもいいですか」
声をかけたのは、一つ隣のテーブルに座った男だった。紺のジャンパーを椅子に掛け、紅茶を飲んでいる。何度か店で見た顔だったが、話したことはなかった。
修一は、手元の新聞をまとめかけた。
「どのあたりですか」
「碁の欄を。今日、載っているはずなんですが」
新聞をめくると、その欄は向かいへ置いた紙面の裏にあった。修一は一枚だけ抜いて差し出した。残りは自分の前へ戻した。
男は礼を言い、隣のテーブルで新聞を縦長に折った。小さく載った盤面を見て、人さし指を宙で動かしている。修一も自分の新聞に目を戻した。しばらく、ページをめくる音だけがした。
「分かりましたか」
カップを置いた拍子に、修一のほうから聞いていた。
「まだ。前のはすぐ分かったんですが。答えが先に目に入って」
男は困ったように笑った。修一も笑い、持ち上げたカップをいったん下ろした。
「それなら、私にも分かりそうです」

男は盤面の下を手のひらで隠し、「今日は見ないでやってみます」と言った。それから二人とも黙った。修一には碁の打ち方が分からない。聞けば教えてくれそうだったが、そこまで話したいわけでもなかった。
隣では指が止まり、また動いた。修一は冷めてきたコーヒーを飲みながら、新聞の続きを読んだ。さっき通り過ぎた段落に戻ると、小さな町工場で働く人の話だった。知らない工具の名があり、写真と見比べた。
やがて男が時計を見た。
「今日はここまでにします。ありがとうございました」
返された新聞は、ずいぶん細く折られていた。修一は受け取り、元の幅に広げた。男はジャンパーを着て、会計へ向かった。互いの名前を聞くことも、次に来る日を話すこともなかった。
まだ読み終えていないページ
入口のベルが鳴り、男が出ていった。
修一は返された紙面を裏返した。映画の題名が一つ、目に入った。見たことがある。圭子と見たはずだったが、家のテレビだったか、映画館だったかは思い出せなかった。
聞こうとして顔を上げた先に、籐の浮いた椅子があった。
修一は題名をもう一度読んだ。声にはしなかった。窓の外を手提げ袋を持った人が通り、袋が椅子の向こうを横切っていく。しばらく新聞の同じ場所を見ていた。

隣のテーブルを拭きに来た店員が、空いた椅子を戻した。修一は、その音が収まってからカップを持った。底に残っていたコーヒーは、もうぬるかった。
飲み終えると、脇に置いていたスプーンを受け皿に載せた。圭子はいつも、こうしてから上着を取った。修一は自分の袖口に触れ、椅子を少し引いた。
壁の時計を見ると、スーパーが開く時刻だった。買い物のメモは上着のポケットに入っている。牛乳と食パンは、帰りに買えば間に合う。
修一は立たずに、新聞を持ち直した。テレビ欄のある紙面を朝刊の中へ挟み、さっきの記事を探した。記事に出てきた人が、どんな仕事をしているのか、最後まで知りたかった。
店員が布巾を畳みながら、こちらを見た。
「お済みのカップ、下げてもよろしいですか」
「はい。新聞を、もう少し読んでいても?」
「どうぞ」
白いカップが受け皿ごと持ち上げられた。修一は空いたところへ新聞を置いた。向かいの椅子は空いたまま、窓から入る光が、折り目の山に細く当たっていた。