「ずっと一人だったんですか」独身の理由より、話したかったこと

この物語はフィクションです。

「昨日、本棚を動かしたら、窓が一つ増えたみたいで」

昼休みの休憩室で、奈緒は弁当のふたを開けながら言った。向かいに座った横山が、箸の袋を破る手を止めた。

「模様替えですか。ご主人と二人で?」

「いえ、私だけです。結婚はしていなくて」

「そうなんですね。ずっと一人だったんですか」

奈緒は、外した弁当の留め具を指で押した。ぱちん、と小さな音がした。

休憩室で向かいの同僚と座り、弁当の留め具に触れる女性

「一人じゃいけませんか」が出かかった

奈緒は五十六歳。食品の卸会社で注文の入力をし、駅から少し離れたマンションで一人暮らしをしている。横山は今月、別の営業所から移ってきた同僚で、昨日までは伝票の置き場所や電話の取り次ぎ方を話すくらいだった。

今朝、窓際の鉢を見た横山が、家の観葉植物を枯らしてしまったと言った。それで昼休みに、奈緒も自分の部屋の話をした。長く窓の端をふさいでいた本棚を、ようやく反対の壁へ移したのだ。

「ずっと」のあとに、何年分を答えればいいのだろう。

数年前、知人の食事会で似たことを聞かれたときは、「一人じゃいけませんか」と返した。相手は「そんなつもりじゃ」と言い、それ以上は尋ねなかった。そこで話が止まって、奈緒は助かった。

今も同じ言葉が出かかった。結婚しようと思った相手もいた。こちらから別れたこともある。どれを言えば、向かいの人は納得するだろう。そう考えているうちに、卵焼きへ伸ばした箸が止まった。

弁当の卵焼きへ伸ばした箸を止める女性の手元

横山は奈緒の返事を待っていた。さっきまで話していた窓や本棚のことは、もう聞かれない気がした。

「結婚は、したことがないです」

奈緒は箸をいったん置いた。

「何か、理由があったんですか」

「その話は、しないでおきます」

思っていたより、声は硬かった。笑って付け足そうとしたが、何を言えばいいのか浮かばなかった。

「あ、すみません」

横山が目を伏せた。奈緒は小さくうなずき、卵焼きを口に入れた。換気扇の音が急に大きく聞こえた。

話したかったのは、本棚のことだった

しばらく二人とも弁当を食べていた。奈緒は、まだ少し腹が立っていた。けれど、あの窓を見たときのことは、話したかった。

「それで、本棚なんですけど」

横山が顔を上げた。

「窓のところに、椅子を置けるようになったんです。十三年住んでて、初めて」

「そんなに長く、同じ場所にあったんですか」

「引っ越した日にそこへ置いて、そのまま。カーテンも、片側だけ引っかかってたんです」

奈緒は、左手でカーテンを引く仕草をした。昨日までは、朝ごとに本棚の角から布を外していた。面倒なのに、模様替えのほうがもっと面倒だった。

本棚の話をしながら左手でカーテンを引く仕草をする女性

「動かす前に、本を全部出して?」

「ええ。それで、戻したら入りきらなくて。出したものしか戻してないのに」

「それは不思議ですね」

「前は横にも重ねてたんです。今度はきれいに並べようと思ったら、床に残っちゃって」

横山は「うちも戸棚を片づけると、そうなります」と言った。奈緒は床に積んだままの料理の本を思い出した。使いたい一冊ほど、いつも下にあった。

横山の弁当箱は、もう空になっていた。奈緒が時計を見ると、午後の始業まで、まだ十分ほどあった。

「その椅子で、何か読むんですか」

「今はまだ。座ると、床の本が気になって」

二人で少し笑った。横山は弁当箱を袋へしまい、「お先に」と休憩室を出た。奈緒は残ったご飯を食べた。いつもより、少し急いだ。

午後、確認の必要な注文が一件あった。横山の席へ伝票を持っていくと、彼は手元の書類をよけた。

午後の職場で注文の伝票を持って同僚に確認を頼む女性

「ここの数、電話で聞いたのと違うんです。もう一度確認してもらえますか」

「分かりました。聞いておきます」

奈緒は自分の席へ戻った。昼の話を持ち出すことも、避けてほかの人に頼むこともしなかった。

部屋に戻って、また返事を考えた

帰宅すると、本棚の前には昨夜のまま、三つの本の山が残っていた。奈緒は足で崩さないようによけ、弁当箱を流しに置いた。

冷凍してあったご飯を温めている間に、昼の言い方を思い出した。声が硬かったことも、横山が目を伏せたことも。

明日、「仕事が忙しかった時期もあって」と付け足そうか。そう言えば、あの人も返事に困らずに済むかもしれない。

忙しかったのは本当だ。でも、それだけが理由だったと聞こえそうだった。ほかのことまで話し始めたら、どこで終えればいいのだろう。

電子レンジが鳴った。奈緒はご飯を取り出し、朝の残りの煮物と一緒に食卓へ運んだ。椅子に座っても、すぐには箸を取らなかった。

「その話は、しないでおきます」

一度、声に出してみた。休憩室よりも低い声になった。誰もいないのに、少し気恥ずかしかった。

食後、床の本を一冊ずつ棚へ戻した。大きな料理の本は下の段にまとめ、小さな文庫は上へ移す。背表紙が隠れないように並べると、やはり全部は入らなかった。

床に膝をつき本棚の下段へ大きな本を戻す女性

奈緒は残った本を二山に分けた。今夜はここまでにして、一冊を持って窓際の椅子へ座った。カーテンを閉めると、布はどこにも引っかからず、端まで動いた。

膝に本を置いても、昼の「ずっと一人」がまだ耳に残っていた。あの言い方が嫌だったと、言ってもよかった。そこまでは言わなかった。

結局、本は数ページしか進まなかった。椅子のそばに置こうとして、まだ置き場所がないことに気づき、閉じた本を食卓まで持っていった。

翌週の昼休み、鉢の大きさを聞いた

翌朝、横山はいつもどおり「おはようございます」と言った。奈緒も挨拶を返した。付け足そうと考えた理由は、口にしなかった。

その後の数日は、二人の休憩時間がずれた。仕事の話はしたが、昼のことを改めて話す機会はなかった。

翌週の月曜、奈緒が休憩室へ入ると、横山が一人でお茶を飲んでいた。奈緒は少し迷い、向かいの椅子を引いた。

「本、片づきました?」

横山が聞いた。

「まだ二山あります。椅子には座れるんですけど」

奈緒は弁当を出した。今日は、ふたを開けてから続きを話した。

「横山さんが枯らしたって言ってた鉢、大きかったんですか」

横山は両手を少し離した。

「このくらい。思ってたより大きくなって、窓の前に置けなくなったんです」

「ああ、うちも、それだと無理かな」

「何か置くんですか」

「小さいのを一つ。でも、本を置く台のほうが先かもしれません」

奈緒は両手で鉢の大きさをまねてから、片方の手を少し内側へ寄せた。