この物語はフィクションです。
五十四歳の千佳は、友人の結婚を祝った夜、誰かの紹介を頼まなかった。食事の途中までは、帰る前に一度だけ言ってみようと思っていた。
「おめでとう」のあとで、独身の友人を数えた
「浩二さんと、先週、籍を入れたの」
洋子がそう言ったのは、二人分の飲み物が届いたときだった。
「えっ。おめでとう」
千佳はグラスを持ち上げた。洋子も少し照れた顔で、自分のグラスを寄せた。
二人は以前、同じ会社で働いていた。洋子が転職したあとも、数か月に一度は、仕事帰りにこうして食事をする。二十年以上の付き合いになる。五十五歳の洋子に交際相手がいることは聞いていたが、結婚の話までは知らなかった。
「言ってくれれば、お祝いを持ってきたのに」
「それはいいの。今日は、顔を見て言いたくて」
洋子は左手をテーブルに置いた。細い指輪が光った。千佳が「見せて」と言うと、洋子は手のひらを伏せたまま、少し先へ伸ばした。

千佳は結婚したことがない。最後に交際した相手と別れてから、七年ほどになる。その間に誰かを好きになりかけたことはあったが、今、付き合いたいと思っている人はいなかった。
洋子は、来月には二人で借りた部屋へ移るのだと話した。職場は変わらず、通勤は少し短くなるらしい。千佳は駅の名前を聞き、そこなら今の家からも遠くないと思った。
「じゃあ、引っ越しの準備で大変だね」
「まだ箱も買ってない。物件を決めたら、ほっとしちゃって」
いつもの洋子だった。期限が近くなるまで荷物をまとめず、出張前日に大きなかばんを買いに行ったこともある。千佳がそれを持ち出すと、洋子は「今回は間に合わせる」と笑った。
笑いながら、千佳は頭の中で独身の友人を数えていた。最近よく会う人の中では、洋子と自分が残っていた。その数え方をした途端、さっきまで何ともなかった今の暮らしが、急に動いていないものに思えた。
先月、昼休みに同僚が婚活の話をしていたときは、聞き役でいられた。同僚が次の週末に誰かと会うことになっても、千佳は自分の予定を変えようとは思わなかった。
でも、洋子まで結婚したのだ。
料理を取り分けながら、千佳は「まで」という言葉が浮かんだことを、黙っていた。

紹介を頼む言葉だけは、すぐに浮かんだ
「浩二さんとは、友達の集まりで知り合ったんだっけ」
「そう。前の職場の人が呼んでくれて、六人くらいで食事したとき」
千佳はうなずいた。前にも聞いた話だった。今日は、その場を用意した人がいることが気になった。
「私にも、誰かいい人がいたら紹介して」
言葉は、頭の中ですぐにできた。洋子なら、自分がどんな人間なのか、一から説明しなくても分かっている。今なら結婚の話の続きとして、重くならずに頼めそうだった。
ただ、頼んだあとを考えると、千佳の箸は少し止まった。
たとえば来週、洋子から「一度会ってみない?」と連絡が来る。名前を聞き、日を相談し、まだ会ったことのない人と食事をする。会ってから気が合うと分かることもあるだろう。最初から好きな人がいなければ、紹介を頼めないわけでもない。
それでも今、千佳がほっとしそうなのは、相手の話を聞くときより、会う日が決まったときだった。何も始めていないのは自分だけ、と思わずに済む。

「このあと、甘いものも頼もうか」
洋子に言われ、千佳は顔を上げた。
「うん。今日はお祝いだし」
メニューを渡しながら、今のうちに言おうと思った。ところが、洋子がケーキの欄を指さして、「これ、この前二人で食べた」と話し始めた。
千佳は、開きかけた口を閉じた。
洋子が話したのは、一緒にいたい人のことだった
「浩二さん、半分ずつって言ったのに、私のほうばっかり食べるの。自分で選んだほうが酸っぱかったんだって」
「洋子も、人のを食べるじゃない」
「それは、一口ちょうだいって聞くでしょ」
千佳が笑うと、洋子も笑った。写真を見せてもらったことはあるが、浩二さんとはまだ会っていない。酸っぱいケーキを選んで困っている顔が、少し想像できた。
「結婚しようって、どっちから?」
「私から。前にも、一緒に住む話はしてたんだけど」
洋子はメニューを閉じた。
仕事帰り、浩二さんが洋子の部屋へ夕飯を食べに来ることがあった。食べ終わって少し話すと、帰る時間になる。洋子はそのたび、お茶をもう一杯いれようかと聞いていたのだという。
「別に、話が残ってるわけでもないんだけどね。もう少しいてほしくて」
「それで、一緒に住もうって?」
「うん。どっちも仕事は続けるし、帰る時間も違うけど。もうお茶で引き留めなくていいかなって」

千佳は、いいな、と思った。誰かが帰ろうとすると、もう少しここにいてほしくなる。その気持ちは、覚えている。
今も、夕飯のあとに誰かと話せたらと思う夜はあった。洋子がさっきしたような、ケーキを選び損ねた話を聞くのも楽しそうだった。
それでも、来週、知らない人と会う約束を入れるより、今までのように仕事から帰り、その晩の気分で過ごすほうがよかった。何か特別にしたいことが待っているわけではない。
千佳は、まだ頼んでいない紹介のことを、もう一度考えた。
もし自分はどうなのかと聞かれたら、「仕事が忙しいから、落ち着いたら」と答えるだろう。そう言えば話しやすいが、来月も、たぶん同じくらいの忙しさだ。休みが全部埋まっているわけでもない。
今は、恋人を探して会いたいとは思っていない。それだけでは理由にならない気がして、忙しさを付け足そうとしていた。
店員が注文を取りに来た。千佳は洋子に「今日はどれにする?」と聞いた。
洋子が選んだのは、前に浩二さんが食べたという、酸っぱいほうのケーキだった。
二人で会う食事のことを話した
「引っ越しが落ち着いたら、うちに来て。浩二さんにも会ってほしい」
ケーキの皿を少し脇へ寄せて、洋子が言った。

「うん。会ってみたい」
返事をしてから、千佳は、洋子たち二人と自分の三人で座るところを思い浮かべた。楽しみだったが、少し落ち着かない。話についていけず、笑ってばかりになるかもしれない。
自分にも相手がいれば四人になる。そのほうが気楽なのでは、とまた考えた。
それでも、席を四つにするために、今ここで誰かの紹介を頼む気にはなれなかった。
千佳は、洋子の左手から顔へ目を戻した。
「それと、二人でも、またごはんに行こう」
「行こう。私は仕事帰りがいいな。引っ越したら、帰りはあっちの線になるけど」
洋子は窓の外の駅を指した。
「じゃあ、向こうの駅のほうでも探しておく」
「うん。ここの店も好きだから、また来たいけどね」

いつ会うかは、その場では決めなかった。浩二さんに会ったとき、自分のことを聞かれれば、また少し焦るかもしれない。「千佳にもいい人が」と言われたら、笑って受け流してしまいそうな気もした。
洋子がケーキを一口残して、フォークを置いた。
「やっぱり、ちょっと酸っぱい。食べてみる?」
千佳は自分のフォークを伸ばした。思ったより酸っぱくて、二人で笑った。
皿が下げられたあと、千佳はかばんからスマートフォンを出した。
「今日、写真を撮ろうよ。二人で撮ったの、ずいぶん前じゃない?」
洋子はうなずき、千佳の隣の席へ移った。通りかかった店員に頼むと、一枚撮ってから画面を見せてくれた。
千佳だけが目をつぶっていた。
「もう一枚、お願いしてもいいですか」
洋子が左手を顔のそばに上げた。千佳は指輪を隠さないように少し体を引き、今度はレンズを見た。