この物語はフィクションです。
「まだ会えません。お付き合いを、いったん休みたいんです」
正彦は、電話口の直子にそう伝えた。六十五歳。妻を亡くして四年になり、この春から直子と付き合っていた。
六月の終わり、取り込んだ洗濯物を抱えたまま、窓際に立っていた。電話をかける前に、洗濯物は置いておくつもりだった。直子の声が聞こえると、そのまま話し始めてしまった。
帰り際の「次はいつ」が気になり始めた
直子とは、友人の家の食事会で知り合った。六十三歳で、近くの町に一人で暮らしている。最初に二人で出かけたのは、古い商店街だった。
直子は、道の端に並んだ植木鉢を見ると足を止めた。花の名前をいくつも知っていたが、鉢の中から勝手に伸びてきた草の名前は分からなかった。
「抜こうか迷っているうちに、うちではこれがいちばん大きくなって」
携帯電話を出して、ベランダの写真を見せてくれた。正彦には、どれを育てようとしていたのかも分からない。
「主役はどれですか」
「奥です。ほとんど写っていませんね」
直子が指で写真を拡大した。二人で画面をのぞき、葉の陰にある小さな花を探した。

また会いたいと思ったのは、その帰り道だった。正彦から次の食事に誘い、何度か会ったあと、付き合ってほしいと伝えた。直子は「私も、そう思っていました」と答えた。
正彦は週に三日、金物卸の倉庫で働いている。直子と会う日は、仕事のない日に決めた。初めは出かける店を探すのも楽しく、前夜に靴を拭くことさえ、久しぶりだった。
五月になると、食事の帰り際に次の予定を聞かれることが増えた。正彦も、その場で「来週も空いています」と答えた。家に帰ってから、翌週には家で本を読みたかったことを思い出す。けれど、一度言った予定を変えるほどの理由には思えなかった。
会っている間に退屈するわけではない。直子の話の続きを聞きたい日もあった。ただ、店を出る時刻が近づくと、次は何と答えようかと考え始める。別れたあと、駅の階段を一人で下りるときが、いちばんほっとするようになっていた。
会う回数を減らしても、返事に迷った
六月の初め、昼食を終えた直子が言った。
「このところ、帰るころには疲れていますね。会うの、少し減らしましょうか」
「そうしてもらえると、助かります」
その月は、次の食事を一度だけにした。夜の電話も、直子から「用事があるときにしましょう」と言ってくれた。正彦は礼を言い、そうしたいと答えた。
予定が減った週末、正彦は押し入れから夏用の敷き物を出した。床へ広げると、今年も同じ角が持ち上がった。厚い本を載せて押さえた。

以前なら妻が、その上から足で押さえていた。正彦は本をもう一冊重ね、しばらく床に座っていた。
夕方、直子から朝顔の支柱の写真が届いた。鉢に比べて、ずいぶん背が高かった。
「これなら足りるでしょうか」
正彦は「花より先に、ベランダが立派になりましたね」と返した。すぐに「買いすぎました」と返ってきて、声を出して笑った。

そのやり取りはうれしかった。それでも、決めていた食事の日が近づくと、何を話そうかと考え込んだ。敷き物を出した日のことを話す気にはなれず、代わりになる明るい話も思いつかなかった。
当日、直子はいつもどおりに話した。妻の話を避けてほしいと言われたことはない。それなのに正彦は、黙っている時間が長くなると、何か面白いことを言わなければと焦った。
食後、直子が「来月はどうしましょう」と尋ねた。正彦は、まだ予定を決めずに考えたいと答えた。直子も「では、今日は決めないでおきましょう」と言った。
会う回数をさらに減らしてほしい、と頼もうとしていた。けれど、月に一度と決め直しても、その一度を今は待ち遠しく思えなかった。
帰宅後、七月の予定を聞かれた場面が何度も浮かんだ。直子のことを嫌いになった、とも言い切れない。携帯電話には、まだ支柱の写真があった。
「私は、待っていられません」
数日考え、六月の終わりにかけた電話だった。
「休むというのは、いつまでですか」
直子の問いに、正彦は抱えていた洗濯物を椅子へ置いた。
「いつなら会いたくなるのか、今は分かりません」
「この前、一回にしたのも、無理だったんですね」
「会って嫌だったわけではないんです。でも、次の約束をすることが重くて。楽しく話さなくては、と自分で決めてしまって」
「黙っていてもよかったのに」
「ええ。ただ、そう思おうとしても、今はうまくできません」
直子の息を吸う音が聞こえた。
「私も、次に会うのを楽しみにしていたんです」
正彦は「はい」と答えた。すぐに続ける言葉が見つからなかった。
「私は、待っていられません。一緒に出かけられる人との出会いも、これから考えたいです」
直子が誰かと並んで歩くところを想像した。自分から休みたいと言いながら、その隣を空けておいてほしかったのだと思った。
「寂しいです。でも、待ってくださいとは言えません」

「それでも、休みたいんですね」
「はい。今は、恋人としてのお付き合いを休みたいです」
「分かりました」
正彦は、もう一つ言おうか迷っていたことを口にした。
「朝顔が咲いたとか、ああいう便りまでなくなるのは、寂しいと思っています。僕からも、何か見つけたときに送れたらと」
「それは、今日は返事ができません。連絡が来るたびに、また会えるのかと思ってしまいそうです」
正彦は、携帯電話を持ち直した。
「分かりました。今は、こちらから送らずにいます」
「便りのことは、少し考えさせてください。私から、もう一度電話してもいいですか」
「はい。電話で話せます」
その夜は、そこで電話を切った。
三日後、便りの話だけをした
三日後、直子から「今、少し話せますか」と連絡があった。正彦が「大丈夫です」と返すと、電話が鳴った。
「写真のこと、考えました。朝顔が咲いたら、正彦さんにも見せたいとは思うんです」
「僕も、見たいです」
「でも、毎日の近況報告にはしたくないです。季節のものを見つけたときに、ときどき。それくらいなら、私も送ってみたいです」
「ええ。僕からも、そのくらいの便りにしたいです」
「返事は、書きたくなったときだけで。来ないからと、催促はしないことにしませんか」
「そうしましょう。毎回お返しを探すのも、やめておきたいです」
少し間が空いてから、直子が続けた。
「私は、便りに『また会いましょう』とは書きません。今は待つ話に戻りたくないので」
「僕も、写真に誘いは添えません。また会いたくなったとしても、そのときは改めて聞きます」
「そのとき私が会いたいかは、今は分かりませんよ」
「はい。そのときの返事を聞きます」
窓の外で、風に押された物干し竿が鳴った。正彦は戸を少し閉めた。

「やっぱり便りもつらいと思ったら、やめたいと伝えます」
直子が言った。
「僕もそうします。どちらかがやめたいと言ったら、そこで止めましょう」
「ええ。そうしましょう」
電話を切ったあと、正彦は窓を開け直した。
七月の花と、十月の栗
七月半ば、直子から朝顔の写真が届いた。あの高い支柱の、下のほうに花が二つ咲いていた。
「まだ上の階は空いています」
正彦は写真を拡大した。以前、二人で小さな花を探したときの、直子の指を思い出した。
その夜は眺めるだけにして、翌日の夕方に返した。
「一階から埋まるんですね。見せてもらえてうれしいです」
そのあと、しばらく便りはなかった。
八月には、正彦が夕焼けの写真を撮った日もある。直子へ送ろうとして、返事が来たら会いたくなってしまいそうで、その日は送らなかった。写真は携帯電話の中に残った。
十月、正彦は仕事の帰りに栗を買った。茹でてから半分に切ると、思っていたより小さな実が、厚い皮の中に詰まっていた。小皿に載せて、写真を撮った。
「今夜は栗です。買うときには大きく見えたんですが」
直子へ送ったのは、それだけだった。

翌日の昼休みに、返事を読んだ。
「うちも昨日、茹でました。むきながら食べてしまって、皿には少ししか残りませんでした」
正彦は笑ったあと、何粒ぐらい食べたのだろうと思った。以前なら、次の食事で聞けた話だった。
家に帰ると、残しておいた栗を冷蔵庫から出した。スプーンを小さいものに替え、昨夜は取り切れなかった皮のきわを、もう一度すくった。