この物語はフィクションです。
「十月十四日の夜七時に、もう一度話さないか」
隆司は、電話を耳に当てたまま十月の手帳を開いた。九月の最後の日だった。
「七時なら、夕飯も済んでる。うん、その日にしよう」
郁子の返事を聞いて、十四日の欄に「郁子さんと電話」と書いた。六十四歳の隆司は、少し前まで、この電話で交際を終えることになるかもしれないと思っていた。
九月は、一度も会えなかった。それでも二人は、付き合い続けたいと話した。次に会う日は決めず、二週間後に、お互いが今どう思っているかを話す。その約束なら、今の二人にもできた。
「手帳に書いたよ」
「私も」
隆司はペンの先を引っ込めた。母の家へどれくらい通うことになるのか、十月の見通しはまだ立っていなかった。
母の買い物袋と、自分の洗濯物
八月の終わりに会ったとき、郁子は駅前の店で冷たい麺を食べていた。六十六歳の彼女は、週に四日、花屋で働いている。その日は、店で新しく使い始めた包装紙がどうにも扱いにくいと、箸を動かしながら話した。
「きれいなんだけど、折ると元に戻ろうとするの。花より紙と格闘してる」
隆司には紙の種類までは分からなかったが、郁子が両手で押さえるしぐさをするのがおかしかった。笑うと、「本当なんだから」と郁子も笑った。
二人はそれぞれ一人で暮らし、付き合い始めて半年になる。隆司は週に三日、知人の金物店を手伝っていた。互いの休みが合う日に昼食を取り、買い物をして別れる。八月までは、月に二、三度そうして会っていた。
九月に入るころから、隆司の母が、一人で買い物や通院に出かけるのを不安がるようになった。隆司はバスで四十分ほどの母の家へ通い、付き添いや、家の用事をする日が増えた。
買い物だけのつもりで行っても、帰り際に封筒を渡されることがあった。母と並んで書類を読み、返事が要るものを確かめていると、乗るつもりだったバスの時間を過ぎた。
母の冷蔵庫へ買ったものをしまい、自分の分は帰りに買う。家へ戻ると、朝、干せなかった洗濯物がかごに残っていた。夕飯を食べると、それを洗うだけで一日を終えたくなった。

九月初めに決めていた郁子との昼食は、母と出かける用事が重なり、数日前に取りやめを伝えた。郁子は了承したが、次に出した日も、二人の都合が合わなかった。
「来週なら、何とかなると思う」
隆司は一度そう送った。だが、その週も、母の家へ行く日と郁子が休める日が重なった。「まだ分からない」と返すうちに、中旬になった。
母と約束した用事の日時は、手帳に書ける。それ以外にどれほど手が要るのか、隆司にもまだ分からない。空いている欄を見つけても、その日は自分の家の片づけをしたかった。
郁子から届く、店の花や夕飯の写真は見ていた。今日は何を食べたか、仕事はどうだったか。そんなやり取りは続いていたが、「次はいつ会える」と聞かれると、返事が短くなった。
郁子も、空けたままの休みを見ていた
九月の下旬、郁子は友人から、十月最初の日曜に陶器市へ行かないかと誘われた。返事を書きかけ、隆司の休みが分かってからにしようと携帯を置いた。
少し前にも同じことをした。映画に誘われて、隆司と会うかもしれないからと返事を延ばした。結局、その休みは一人で過ごした。
隆司に休みを空けておいてくれと頼まれたわけではない。ただ、「来週なら」という言葉があると、別の予定を入れにくかった。自分から会いたいと聞くたび、困らせているようで、それもつらかった。
夕方、店から帰った郁子は、買ってきたパンを切り分けた。半分は明日の分にして、残りを皿へ載せる。食卓の向かいの椅子には、仕事に持っていった布の鞄が置いてあった。
隆司と毎日会いたいわけではなかった。それでも、同じものを食べながら、今日あったことを話したかった。写真を送って「おいしそう」と返ってくるのもうれしい。けれど、それだけでこの先も付き合えるかと聞かれたら、今はうなずけなかった。

九月二十九日の夜、郁子は隆司に送った。
「今月は会えなかったね。これからのこと、少し話したい。明日の夕飯のあと、電話できる?」
「七時なら話せるよ」
返事が来ると、郁子は「では七時に」と送った。陶器市の返事は、まだ書けなかった。
「落ち着いたら」を、もう一か月は待てなかった
翌日の七時、隆司から電話が来た。郁子は食器を洗い終え、食卓に座っていた。
「お母さんのこと、少し落ち着いた?」
「来週も、二度行くことは決まってる。その先は、まだ」
隆司は、母と済ませる用事を頭の中で並べた。説明しようと思えば長くなる。でも、長く話したところで、郁子と会える日が出てくるわけではなかった。
「いつまでこんなふうになるか、俺にも分からないんだ」
「うん」
しばらく、どちらも話さなかった。隆司は手帳の角を指で押さえた。
「待たせてばかりだから、もう付き合うのはやめたほうがいいのかなと思って」
「隆司さんは、やめたいの?」
すぐには答えられなかった。郁子のためを思って言ったつもりだった。けれど、そう言えば、次にいつ会えるか答えなくて済むという気持ちもあった。
「やめたくはない。会いたいよ。あの包装紙の話みたいなこと、また聞きたい」
「あれはもう慣れた」
郁子が少し笑った。隆司も笑いかけて、次の言葉を待った。
「私も、今ここで別れたいとは思ってない。でも、『落ち着いたら会おう』のまま、もう一か月過ぎるのはつらい」
郁子は、映画の誘いへの返事を延ばしたことを話した。今も、友人からの陶器市の誘いを保留にしていることも。
「日曜は、行こうと思ってる。それから次の休みは、家でゆっくりしたい。花屋で立ってると、出かけたくない日もあるから」
「うん。俺の予定を待たせてしまったね」
「自分で空けていたんだけどね。これからは、会うと決まっていない日は、自分の予定を入れる」
隆司は「寂しくないの」と聞きかけて、やめた。さっき郁子は、会えないままなのがつらいと話したばかりだった。
「もう少ししたら、とは言えない。でも、また話す日は決められると思う」
「そのときも会える日が分からなかったら?」
「分からないって言う。郁子さんがどうしたいかも聞きたい」
「私も、そのときには、待つのがしんどいと言うかもしれないよ」
「うん。それも聞く」
郁子は、食卓に置いた手帳を開いた。
「二週間くらいなら、今は待ちたい。ただ、次も同じように待てるかは、今は決められない」
隆司は九月のページをめくった。
そこで、十月十四日の夜七時を尋ねたのだった。
十月最初の日曜、会う予定は入れなかった
電話を終える前に、郁子が言った。
「じゃあ、日曜は陶器市に行ってくる」
「うん。何を買ったか、聞かせて」
「見るだけかもしれないけどね」
二人は「おやすみ」と言って電話を切った。郁子はそのあと、友人へ参加の返事を送った。
十月最初の日曜、郁子は友人と並んで、棚に置かれた皿を見ていた。手に取っては戻し、帰り際に、小さな青い鉢を一つ買った。

その日、隆司は母の家へ行っていた。頼まれていた買い物を済ませ、玄関で靴を履くときに、母から次の用事の話が出た。帰りのバスで手帳を開き、その日付を書き込んだ。
十月のページには、十四日の電話の予定もあった。会う日が決まるかもしれないし、郁子の気持ちが変わっているかもしれない。隆司はページを閉じ、窓の外へ目を向けた。
夕方、郁子から写真が届いた。青い鉢に、買ってきた惣菜が盛られていた。
「さっそく使ったの?」
「うん。もう一つの色と、ずいぶん迷った」
隆司は写真を少し大きくした。
「もう一つは、何色だった?」