この物語はフィクションです。
水曜日の夜七時十分、直人は作業台の明かりの下で、革靴を一足ずつ布で拭いていた。
五十七歳の直人が一人で営む靴の修理店は、夜七時までだ。客が帰ったあと、道具を戻し、床を掃き、その日の売り上げを帳面につける。明日渡す靴も、もう一度見ておきたい。
棚には、修理を待つ靴と、持ち主の迎えを待つ靴が並んでいる。今拭いている一足は、明日の夕方に取りに来る約束だった。

スマートフォンが鳴った。布を置き、手を洗ってから画面を開くと、香織からだった。
八時半からでは、遅かった
「今週の金曜、七時くらいからごはんに行かない?」
五十五歳の香織とは、付き合い始めて四か月ほどになる。彼女は会社勤めで、直人の定休は月曜日。休みはなかなか合わない。その月曜も、仕入れや帳面の整理をしているうちに、半日が過ぎることがあった。
直人は、作業台の端に重ねた預かり票を見た。金曜日は閉店近くの受け取りが二件ある。片付けて、着替えて、駅まで出る。
「八時半なら行けると思う」
少しして返事が来た。
「八時半からだと、ちょっと遅いな。土曜は朝早く出るから、今回はやめておこう」
直人は「分かった。また日にちを考えよう」と送った。
もう少し早く終われるかもしれない。画面を伏せてから、そう返せばよかったかと思った。でも、そのつもりで約束すると、客を待ちながら時計ばかり見てしまいそうだ。客の話を途中で切り上げるのも嫌だった。
香織と会う日は、食事が遅くなりがちだった。ようやく席に着いても、話を聞く途中であくびをかみ殺す。帰り道には、もう翌朝の仕事のことを考えている。
それでも次に誘うときは、いつも「仕事が終わったら」と言っていた。
直人はスマートフォンを引き出しにしまい、明日渡す靴を箱に収めた。
カレンダーに、香織の名前を書く
土曜日の午後、客が修理の済んだ靴を履き、店の中を数歩歩いた。
「これ、もう少し履けそうだね。ありがとう」
直人は、客が置いていった袋を畳んだ。新しい靴に替えず、またここへ持ってきてくれる。そのことは、何年たってもうれしかった。
客が帰ると、水曜渡しの預かり票に手を伸ばした。今から始めれば、一足分、先へ進む。棚を見れば、まだほかにも靴がある。これを全部終えてから、と思っていたら、香織に連絡するのはいつになるだろう。
直人は預かり票を戻し、受け取り予定を書き込んだカレンダーを開いた。
次の金曜には、六時半の受け取りが入っていた。もう一週間先を見ると、夕方の欄は空いている。
六時に閉めれば、片付けをしても、七時には駅へ出られる。
その夜、香織と電話で話した。
「再来週の金曜、一日だけ六時で店を閉めようかと思ってる。その晩、会えそう?」
「その日は六時半まで仕事。七時なら行けるよ」
「じゃあ、駅の改札の外で七時はどう?」
「うん。それなら、ゆっくりごはんが食べられそう」
電話を切り、カレンダーに「七時、香織」と書いた。客の名前以外をそこへ書くのは、久しぶりだった。

翌週の火曜日、直人は紙にその金曜の日付と「午後六時閉店」と書き、店の扉に貼った。店の案内ページも、その日だけは六時までと書き添えた。
その日の午後、新しく修理を頼みに来た客が、仕上がり予定を聞いて言った。
「その金曜なら、六時半ごろ寄れるんだけど」
「すみません。その日は六時までなんです。土曜日でしたら、いつもの時間で開けています」
「じゃあ、土曜の十一時ごろにするよ」
直人は礼を言い、預かり票に土曜の受け取り時刻を記した。
客を見送ったあとも、さっきの「六時半ごろ」という声が耳に残った。案内を見ずに来る人もいるだろう。仕事を頼みたくて寄ってくれる人もいるかもしれない。
扉の紙を見直すと、自分で書いた六時という数字が、やけに大きく見えた。端の浮いたテープを指で押さえた。
金曜日、六時に札を裏返す
早仕舞いを決めた金曜日の夕方、直人は渡し終えた靴の預かり票をまとめた。その日までに仕上げる靴は、もう棚に並んでいる。翌日渡す分も、取り出しやすい場所に置いた。
五時五十分に最後の受け取り客が帰ったあと、直人は作業椅子に腰を下ろした。まだ十分ある。週明けに渡す靴へ目がいったが、引っ張り出す代わりに、使った工具を戻した。
六時になった。
普段なら、まだ一時間ある。直人は店の扉を開け、通りを一度見た。それから営業中の札を裏返し、扉を閉めた。自分の用事で、金曜日に一時間早く店を閉めたのは初めてだった。

床を掃き、売り上げを記し、作業台を拭いた。明かりを消してエプロンを外すと、時計は六時二十五分を指していた。
薄い上着を羽織って外へ出ると、向かいの店はまだ明るかった。直人は鍵をかけ、扉の取っ手を確かめた。背中を向けて歩き始めても、しばらくは店のほうへ耳が向いていた。
十五分ほど歩いたところで、本屋の前を通った。普段、仕事帰りにここを通るときは、もう閉まっていることが多い。
待ち合わせまでは、まだ二十分ある。
直人は店に入り、文庫の棚の前で足を止めた。気になっていた作家の新刊を手に取る。最初の数ページを読み、いったん棚に戻しかけてから、レジへ持っていった。
食堂のテーブルに、文庫本を置く
七時、改札の外で香織と落ち合った。二人で近くの食堂へ入り、直人が上着を脱ぐと、内ポケットから文庫本がのぞいた。
「何を買ったの?」
香織に聞かれ、直人は本をテーブルの端に置いた。
「そこの本屋で。久しぶりに寄った」
「ああ、この人。前の本、最後まで読んだ?」
「途中まで。登場人物の名前も忘れた」
「それ、最初から読んだほうがいいね」
香織が笑い、直人も笑った。前の本も読み終わっていないのに、と言いながら、表紙をもう一度見た。
「来週も六時までにするの?」と香織が聞いた。
「そこはまだ。今のところ、今日だけ」
「そっか。私は来月、月曜に休める日があるかもしれない。決まったら、また相談しよう」
直人はうなずいた。運ばれてきた皿を少しずらして、二人分の場所を空けた。
食事の途中、香織が仕事で使う椅子を替えてもらった話をした。話の終わりに直人が「それで、前の椅子は誰が使ってるの」と聞くと、香織は箸を止めた。
「そこ、気になる?」
「いや、捨てるほど悪くもなかったんだろうと思って」
香織は少し考えてから、前の椅子が今は荷物置きになっていると話した。
翌朝、直人は日付の過ぎた案内を扉から外した。営業時間の表示は、いつもどおり午後七時のままだった。
店を開けるまで、あと十分ある。鞄から文庫本を出すと、昨夜のレシートが挟んであった。直人は作業椅子に腰を下ろし、その続きを読み始めた。